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2022/09/25 11:39

2021年の秋〜冬にアノニマ・スタジオから刊行された2冊の本。

『家族カレンダー』と『サスティナブルに暮らしたい』。

それぞれちがうテーマの本のようで通じあう部分がある2冊。


田舎暮らし、家族、エコライフ重なるキーワードをもとに、神保町ブックセンターで、1211日にトークイベントが行われました。 

高知に暮らす服部雄一郎さんとオンラインで繋がり、行われたこのトーク。振り返ると「エシカルな暮らし」を考えるヒントがたくさん詰まっていたので、

数回にわけて全文を公開したいと思います。


第一回

第二回

・第三回




第二回 


中村

『サスティナブルに暮らしたい』の中で老人ホームに勤める方が環境問題への意識を持った時、紙おむつのゴミがすごいことに罪悪感を感じてしまってという話が印象的でした。服部さんは、紙おむつのゴミの量は深刻ではあるけれど介護という現場で働く人たちに今以上の負担を背負わせるのはあまりにも過酷だ、もう十分その部分においてできることはされていると思うから、それ以外の部分でなにができるか、考えたらいいと思うとおっしゃってましたね。

 

服部

環境問題に向き合う時、今自分ができることをやる、それも楽しんでやれることをやる、ということにフォーカスするほうが効果的なんじゃないかなと思うんです。子育てとかとも通じるんじゃないかな。子育ても今ここで起こっていること取り組んでいることに対しての長期的な効果が見えにくいし、そもそもそんな長期的効果があるかどうか、と考えていたらやってられなくなる。それよりも、楽しめることをやる。だから続けられる。そのほうが結果として「効果」にも繋がっていくんじゃないかなって思います。

 

中村

うちは夫と張り合えるくらいに、娘は「わからない」存在で、それも良かったなと娘に感謝しているんですけど、子育て真っ只中ではやっぱり大変さも大きくて。服部さんは子育て楽しんでるように見えるんですが、大変さがありますか?

 

 

服部

楽しんでると言えば楽しんでるし、でも苦手だなって思う時もあります。

全然子ども中心にしているような親じゃないですし、大人のやりたいことを優先しているとも思っています。でも、僕たち親の生き方が社会一般の中の「普通」とはちがう部分も多くなってきている中で、そのことが負担にならないように、ということは意識しています。子どもって思い通りにしちゃいけないし、そもそも思い通りにはならないし、多くを求めすぎちゃいけないって思っています。こいういう仕事をしているから、プラスチック意識すごく高くて、配慮したもの選びができてってそんな子どもたちを描かれることあるかもしれないですが、そうじゃないです。みなさんが思っているほど、僕は子どもに多くを求めてもいない。でも求めすぎないからこそ、家庭の中でフラットにプラスチック問題も話せるしっていうのもあるな、と自己正当化として思っています(笑)。

 


中村

うちもプラスチック問題は子どもたちには、知識としてはすごく入ってる。で、隣町のスーパーで買い物をするとコインがもらえてガチャガチャができるんです。中にはスーパーボールとかすぐいらなくなるようなおもちゃが入っていて、田舎なのもあるし子どもたちはスーパーに行ってガチャガチャするのは一大イベントだったんですよ。でもある日息子が「ガチャガチャもうしない。プラスチックだから」って言って、おおおお!と思ったんですけど、有料の300円くらいするガチャガチャには目を輝かせて欲しがったりもして。でも当たり前だよな、って思うんです。その気持ちは当たり前だと思うから否定しないし、夫が買ってあげても否定しないです。でも積極的な会話にしてます。「誘惑には負けるよね。ママも負けるよ。お菓子買いたいもん。人間だもん」とか話して、よしまたでもがんばろう〜!って、駄目な自己正当化ですけど(笑)。

 

 

服部

それ、うちと相当似ています。でもそれが一番いいかなと思っていて。『家族カレンダー』に書いてあった「こうありたい」っていう気持ちに蓋をしないっていうことにも通じる気がします。子どもがプラスチック魅惑っていう気持ちをないことにするのは間違ってる気がして、でもプラスチック問題の深刻さを知ってもらうっていうのも大切で、その折り合いに正解ないんですよね。

うちもプラスチックゼロじゃ全然ないです。意識してる分ほかの家よりは少ないけど、やっぱり入ってくるし、子ども問題を理解してるけど、プラスチック製品が家に入ってくるとすっごい喜んでで、むしろプラスチックの価値高まって、プラスチックさまさま状態(笑)

でもプラスチック問題の本質って、これだけ大量にみんなが使い捨ててきてしまったからこその問題でもあるわけで、そう意味ではプラスチックの大切さが高まっているのは決してプラスチックをフェーズアウトしていくのと矛盾していない気もするんです。十全に受け取る、ということでは間違ってないのかもって。

そしてうちは夫婦で本を書いたくらいだし同じ方向を向いているほうだと思うけど、それでも妻とは重要視しているものってやっぱり違います。妻は食品ロスを減らすことに重点を置いていて、売られている食べ物とか実ってる食べ物が捨てられるっていうのが耐えられない。値引きシールがはられてるものは買わなきゃっていう義務感を持ってるんですよね。昨日は閉店間際の地域の直売所で個包装になってるパンをいっぱい買ってきて、僕はあ〜ゴミいっぱいと思う。妻もプラスチック問題を重々わかっている上で、でも最後に重点を置いているところってちがう。僕の嫌だなって思う気持ちは変わらない、でも妻のアクションには妻のアクションの価値がある。僕が思うことが正しいわけじゃない。それは常に意識しようと思っているし、完全に共感はむずかしくても、それぞれに価値があることなんだと思っています。

 

中村

ほんとうにそう思います。でも不思議なことに10年前、震災後わたしがさんざん訴えても夫には全然響いてなかったのが、10年間でほんとうに小さな小さな歩み寄り、お互いを認め合おうという意識をもってのぶつかりあいをしてきた結果、この数年、わたしが今度は環境問題の意識を高まらせ、家からいろんなものを失くしていこうとした時、すごい反発があるかと思いきや楽しんで一緒にとりくんでくれる夫がいたんです。わかりあえないと苦しんでいる方に、10年スパンで考えたらいいかもよ?って伝えたいです(笑)。「もうこの人とはわかりあえない」って思った人と10年かけてきたら、今けっこういい感じまで来たんじゃない?って。最近は向こうからの提案もあったりして。うちはわたしの独断でティッシュを廃止したんです。古布とかでいいじゃないって。夫は2年くらい我慢していたんですが、どうしても紙はほしいと。それで竹からできたバンブーロールっていうトイレットペーパーを、ティッシュがわりにリビングに一つ置くならいいんじゃないかと提案されて。トイレットペーパーとしてもティッシュとしても、今はバンブーロールを使うようになったり。

 

服部

それ面白い。それぞれがそれぞれのできることをするって大事。うちはティッシュ使わないってうちもやろうとしたけど、自分が急性の蓄膿になったり布ティッシュもどろどろになって気持ちわるくて、トイレットペーパーをティッシュにしてて、減らそうとまではしてないんですね。使ったものは全部コンポストにいれています。でも学校の持ち物にティッシュってあって、さすがにトイレットペーパーを持たせたらかわいそうかなってポケットティッシュ持たせたら、すごい使いまくって、わりに一個100円とかで高いのに。あげく洗濯にいれて服についたり、僕はもう買わない!必要ならトイレットペーパー持っていけばっ!みたいな感じになったんですけど(笑)妻はわりにそこは寛容で。ポケットティッシュ?いくらでもかってあげるよってスタンスなので、ポケットティッシュはお母さん担当!みたいな。そういう温度差があることが逆に楽。物事をそういうふうに捉えられるようになるとどんどん楽になるな、みたいなのあると思います。




きれいな部分だけでは生きれない

 

中村

服部さんに聞いてみたかったことがあって。『サスティナブルに暮らしたい』の中でインドでゴミ問題の仕事をされていた時にエコビレッジのオーロヴィルを訪れこんな暮らしが自分もしたいんだ、と思ったのが大きな転機と書かれていたんですが、なんでオーロヴィルには住まなかったんですか?

 

服部さん

あ〜、すごくいい質問ですね。10年くらい前のことだから思い出せるかな。正直ぼくは住みたいと思いました。でも妻は全然住みたくなかった。あと、エコビレッジって特殊は特殊なんですね。本ではエコビレッジにそんなにページを割きたくなかったから、エッセンスだけ伝わればいいかなと思ったんですが番外編としてここでしゃべるならば、エコビレッジにはエコビレッジの問題がある。インドはものすごい貧困や格差といった社会問題がある場所で、そんな中に桃源郷みたいな場所が一箇所あるってことは、すべてがマジカルなわけはないです。そこにも矛盾があることはちょっと訪れただけでも感じたし、あとはもちろん外国人が住む難しさもありました。財産の一部をコミュニティーに預ける、とかそういうシステムもあった気がしますし、エコビレッジで育って子どもはどうなるんだろう?とイメージできないものもあったし、そして妻は日本に住みたいと言っていた。そんな感じですかね。

僕たち家族はわりに適応力はある方だと思うんですけど、やっぱり日本の良さってあるんですよね。政治とか環境意識の遅れとか、問題はあるけど、でも日本の良さってあって最終的に日本で暮らしたいっていうのはずっと思っていました。

 



中村

高知って移住者がすごく増えていますよね。高知の魅力ってどんなところですか?

 

服部

高知はおおらかな県民性で地元の人たちもウェルカムに受け入れてくれて、他所から来た人ものびのび暮らせるような場所ですね。地元の人も移住者もおおらかにみんな繋がって、すごくおすすめです。暁野さんの暮らす藤野も注目の町ですね。

 

中村

そうですね。藤野は東京から1時間ちょっとで行けるのに里山で、パーマカルチャーセンターがあったり、トランジッションタウンという活動があったり、シュタイナーの一貫教育学校があったり、東京から1時間ちょっとで行けるのにすごく共感できる暮らし方をしている人が多い町です。藤野に暮らしていると、日本の問題を感じないくらい、多様で変化にも柔軟です。でもここだけで幸せでもなって気持ちになりつつ

 

服部

核となるコミュニティが地方のいろんな場所にできていくっていいことだと僕は思っています。ちりじりに散らばってしまうと、なかなか求心力を持ちにくいことが一箇所に集まることで、なにかの動きに繋がっていくっていう感覚はあると思うんです。最初にゴミ問題を意識するきっかけになった葉山もそんな町でした。それまで暮らしていた場所では感じられなかった環境問題に取り組む可能性とか期待感をコミュニティにもらった気がして、それが自分を後押ししてくれたところはありました。それ以前は横浜の日吉に住んでいて、それはそれで楽しい暮らしだったけど、「コミュニティの変化」とか「今とは違う未来」とかそんなことは発想もしないような暮らしではあったと思うんです。

暁野さんも住む場所が変われば家族の形も必然的も変わっていく、というようなことを書かれていましたが、そういう意味では住む場所ってほんとうに大きいですよね。

 

 

中村

藤野に住んで家族以外の人と当たり前に関わることでこんなにも楽になるのかって思いました。東京が苦しいとは全然思ってなかったんだけど、でもやっぱりかっこつけてたな、かっこつけないといられなかったもんな、とは思います。今はどんどん『家族カレンダー』じゃないけど、面も裏もなくなって、近所中にわたしの怒声が響く(笑)だからこそすごく楽しく生きている。

 

服部 

(笑)シュタイナースクールにお子さんたちは通われていて、シュタイナースクールも良さそうな学校ですね。

 

 

中村

子どもたちはシュタイナー教育の一貫校とシュタイナー保育園に通っています。シュタイナー教育の魅力はたくさんあるのですが、環境問題を考える上でも、とてもいい教育だなと思っています。自然に触れて、手や体をつかって何かを作りながら学んでいくことが多いんですね。物作りを通して人間が一人でできることと、できないことを感じられるような体験だと思います。人間って身体一つで出来ることはとっても少ないのに、それを感じないまま生きることが、自然や環境全体を軽視しているような今の環境問題につながっているんじゃないかなとも思うんです。

 

服部

教育も少しずつ変わってていっていて、家庭で大事にしていることとズレを感じないでいられる機会も増えていっているのかなと思います。うちも、地方は教育の選択という点では不利かと思いきや、たまたま公立だけど国際バカロエア認定校の学校に通えていて、学ぶ意欲を促すような教育のおかげですごく楽しそうに学校に通っている。家族の中で得ること、学校で得ること、その連動とバランス。そこがうまくとれていくとすごくストレスがなくなっていきますよね。



中村

一見すると今自然豊かな場所で、消費の形も地産地消とかオーガニックな選択が日常的にできて、教育的にもいい環境でこう言葉にするとすてきに暮らしてるってイメージされてしまうと思うけど、でもその中には本にも書いている通り家族の対立もあるし怒声も響いています、っていうのを言っておきたい気持ちがあります。きれいな部分だけで人は生きれないっていうか。オーロヴィルにもあるという問題をわたしは知らないけれど、人がきれいなものだけで生きようとすると、その分の歪みをどこかや誰かに背負わせることになるのかなって。それは個人であっても社会であっても。だから、きれいなものも汚いものも、両方抱えて生きていきたい、と思うんです。

 

服部

「きれい」なものを賛美したい、とは思います。だって、そう生きれていることはほんとにすごいと思いますし。でも、たとえば「きれいに生きれる」人がいることで、その人が悪いわけじゃないけど、そうではない人にマイナスの感覚が生まれてしまったり、ロールモデルができることでモデルになれる人となれない人が生まれてしまったりする。だからこそ、その両方を受け止めていくって大事ですよね。また別問題ではあるけれど、近年はTwitterとかSNSが使われることで、芸能人と呼ばれる人たちも自分の辛さを吐露できたりできるようになってきた。芸能人だってみんなから見られる部分を演じなきゃいけないだけの存在じゃない、一人の人間だってこと。まったく当然のことなんだけれど、でも改めて、理解して思いを寄せなくちゃいけないことを社会が気づき始めれたことはとても大事なことだと思うんです。



第三回に続く