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2022/11/11 18:58




わたしが暮らしている里山・藤野の中でも特に山深い綱子という地域に、やまのこ製本店の明菜さんのアトリエはある。

 家の裏は深い山。鹿がきて庭の植物を食べちゃってと話す自宅敷地には、小さすぎない、でも大きすぎない、なんともちょうどよい大きさの小屋がひとつ、建っている。ここがやまのこ製本店のアトリエだ。


 「なんで手製本を始めたんですか?」

もともとデザイナーだった明菜さんが、とんでもなく手間と時間がかかって、複雑で、だからこそたまらないぬくもりを感じられる、そんな手製本の活動を始めたきっかけを、なんてことない気持ちでわたしは尋ねた。

 

そしたら「ちょっと重い話になっちゃうかもしれないですけど」と前置きして、

「子どもを授かったんだけど、流産しちゃったことがあったんです」と、明菜さんは言った。





「でも、いなくなってしまったけど、たしかにお腹の中にいたってことを感じてた。ちょうど同じ頃に藤野の、ある方のお葬式がありました。とてもあたたかい式で、ジャーナリストだった故人の女性が大切にしていた遺品が並べられていた。その中に『ベビーブック』という本があったんです」

 

『ベビーブック』は、その女性がご自身で作った、息子さんが赤ちゃんの頃から3歳くらいまでの時間を書き綴った本だったそうだ。

 

「わたしもこういう本を作れたら、お腹にいた子どもとの時間を残せるかな。そうしたら、もしかしたらまた子どもを授かれるまでの時間も、大切に、楽しんで過ごしていけるんじゃないかなって思えたんです」

 

そんな気持ちを形にできる方法を探して手製本に出会った、そう言った明菜さんの目から涙がひとつぶ、ぽとりと落ちた。

そしたらなんと、わたしの目からもひとつぶ、涙が落ちたのだ。


春になる前に、うさぎのバターが死んじゃった。

娘が8歳の誕生日に我が家にやってきたバターは3年半、家族として暮らした。3年半しか生きさせてあげられなかった。

あれ?食欲ない?って気づいたのに、ちょっと様子を見ようと思ったことが手遅れになってあっという間に死んでしまった。家の中をワガモノガオで走り回っておしっこひっかける強くて元気なバター。うさぎは体調が急変しやすいデリケートな生き物だって知らなかった。そんなことも知らないまま、生き物を育ててた。

バターに申し訳なくて申し訳なくて、家族みんなで一晩泣いた次の日。体に違和感を感じて、妊娠してることに気がついた。

 

「バターが教えてくれたのかも?」

そんなの、まったく、めちゃくちゃなこじつけなんだけど。

でも何かをこじつけたりして生きることが、時々とっても大切なのだ。

 

バターと一緒に生きたこと、そして失ってしまったこと。

生き物もわたしたちも生まれて、死ぬ。みんな。

それだけのことかもしれないけど、

「それだけ」のことから何を受けとるかって、自分次第で変わるから。

こじつけかもしれなくても、

意味を探して、受けとろうとすることが、とってもとっても必要な、そんな瞬間もある。

起こったこと全部に意味なんてない、と思うことが必要な時もあるし、全部に意味があった、と思うことが必要な時も、どっちだってあると思う。


バターへの後悔やまないわたしは、失ったものと新しいものの意味を繋げたかった。

の、だけれども、しばらくして流産してしまった。

 

悲しかったけどはじめての経験じゃなかったし、どうしようもないことだったんだからと思って、わたしはたいして泣かなかった。

とても抱えられないような痛みを感じている人は、この世界にたくさんたくさんいる。そう教えてくれるニュースを見ると涙がでる。なんでこんなに理不尽なことがあるんだろう?それにひきかえ、わたしは...って後ろめたさみたいものを感じて、自分の悲しさなんて「ない」に等しいことじゃない?って思う。


その頃の日記を読むと、変わらず細々した笑えること、困ったこと、怒ったこと、バタバタしてる日々を書きとめてて自分の気持ちを書いてない。その頃のわたし、今見ると元気そうだ。


たけど息子を保育園に送って門に手をかけた瞬間とか、食器を棚に戻す瞬間とか、ため息が出た。

そんな時、自分の中に濁った水が溜まっててタプンタプンと揺れてる気がした。

溢れ出ちゃうほどの量じゃないし、息がとまるほどドロドロに黒くもない。だから抱えきれないってほどじゃない。ただ、濁った水がタプンタプン揺れてるだけだ。

 

そんなふうにして過ごして随分たった頃、明菜さんのアトリエで、

小さすぎず、大きすぎない、ちょうどいい、居心地いいそのアトリエの中で、わたしの目からも涙がひとつぶ、落ちたのだ。

明菜さんが製本を学び始めた最初の頃に作った本たちを見せてもらった。

 

友達が撮ってくれたという結婚式の写真を製本した本。(自宅とアトリエを会場に藤野の友人たちみんなで作った、お祭りのような結婚式。明菜さんやパートナーのつーさん以上に、集った人たちの嬉しそうな姿がうつってる。一枚も省けなくて、全部の写真を印刷して本に綴ったんだそうだ)

明菜さんとつーさんが、毎年同じ日に、庭の同じ場所で撮った写真を一枚ずつ収め、裏にその年のことをメモしている本...。





どんな人の毎日の中にも

嬉しいことや優しいことがある。

でも嬉しいことや優しいことの中に、悲しいこともある。

本を見ながら、そう思った。

 

言葉にすると涙がひとつぶ落ちてしまうようなことも、誰にだってきっとある。

その悲しみを大きな何かとくらべて「ない」ことになんてしなくていいんだな、と思えた。


明菜さんは悲しいのも、嬉しいのも、優しいのも、ぜんぶを大切に、ぜんぶを抱えて、生きていきたいって思ったんだな。

誰のためでもなく、自分のために作った明菜さんの本たちを見ながら、わたしも本当はとても悲しかったんだなって思うことができた。


バターを死なせちゃったこと。

赤ちゃんもいなくなったこと。

後悔してもどうしようもないこと。

自分のミスだったんだって思うこと。

それでも毎日、ふつうに過ごせちゃってること。


そういうぜんぶぐるぐるごちゃごちゃ、

言葉にできないまま濁って、タプンタプン揺れてる。


今更泣きたいわけじゃなくて、自分をヨシヨシしたいわけでもなくて、ただ、まだ言葉にできないものが自分の中にあるってことを、明菜さんのアトリエで気づけた。


わたしにとって書くことは、もやもやぐるぐるすることに向かっていけることだ。

でも今、うまく言葉にできない、書けないことがある。

言葉にしていくのには時間がかかる。

今すぐ、言葉にならないものがあったって、いいんだって思う。


あと1ヶ月ちょっとで今年は終わって、新しい年がくる。

新しい年になったら、すべてがまっさらに!新しいわたしに!なんてもちろんないから、おんなじわたしが、また毎日を重ねてく。


嬉しいこと優しいこと。悲しいこと。

大きな出来事も、ちいさな、ささやかな出来事も、全部を繋げて、わたしも全部を大切にできたらいい。 

そんなふうに一年カレンダーを書いていけたらいいなって。


そんな1日1日の先に、

この濁った水はきっと、いつか。


なくなるのか、

透明になるのか。

もしかしたらぎゅーっと固まって、

ちいさなまんまるの泥団子になるのかもしれない。その泥団子をそっと、わたしは手で包めるかもしれない。


まだ今は、わからないけれど。

 

いつか、この全部に意味があったなあ!って言える日が、わたしにきっと来ると思う。


その日まで、あますことなく、こぼすことなく、

この全部を感じていれたらいい。